原発と原爆 日本の原子力と米国の影

8月11日のブログでお知らせしたテレビ朝日の番組「ザスクープ原発と原爆 日本の原子力と米国の影 戦後68年、原子力をめぐる知られざる日米関係を検証する」
憲法のみならず、原発にもアメリカは日本の政治に口をだし、日本はアメリカのいいなりに、アメリカに利用され、政府は国民の声よりアメリカの声に従って政策を進めてきた。
 
第一章 2011年福島
自衛隊ヘリ放水の謎 →米が求めた英雄的犠牲
2011年311の福島原発事故のとき、自衛隊が命がけで、ほとんど効果はないとわかっていたのに、ヘリコプターから放水したのはなぜか。
それはアメリカからの圧力。アメリカは英雄的犠牲を求めた。このままでは米軍は避難するとおどした。日米同盟の危機と政府は考えた。
ヘリコプターからの放水はシンボル的意味合いがあった。政府が全面に出ているという証明であり、それはアメリカに対してのパファーマンスでもあった、ということだ。
 
第二章1945年広島
核をめぐって戦後68年、日本の原子力問題はアメリカの核戦略と無縁ではなかった。
アメリカは原爆投下後の残留放射能を否定。黒い雨や死の灰などの残留放射能を今に至るまで否定し続けている。
広島、長崎では死ぬべきものはみんな死んだ。残留放射能で苦しんでいるものは皆無である、と言っている。
アメリカの核の傘のもと、日本政府も同じ方針をとってきた。
 
抹殺された原爆報道
実際はどうだったのか。
原爆投下後最初に広島に入ったジャーナリストはオーストラリア人のロンドンディリーエクスプレスのウィルフレッド・バーチェット記者。世界で初めて広島に入ったのは9月3日。
そのときの彼の記事(原爆の惨状を西側で初めて報道した記事)については8月7日の日記で紹介しましたが、もう一度ここに載せますので、まだ聞いていない方は是非、聞いてください。SBSラジオで朗読されています。
一面トップに掲載されたバーチェットの記事の見出しは「原子病。」
記事の最後は「No More Hiroshima.」で結ばれていた。
 
9月6日にファレル准将は残留放射能を否定。
以後、原爆報道はGHQによって厳重な検閲が行われるようになった。
 
世界で初めて長崎を訪れた外国人ジャーナリストはシカゴディリーニュースのジョージ・ウェラー記者は軍人になりすまして長崎に入って、病院に行き、医者や患者を取材。残留放射能は肉体を貫通して、血小板を破壊した。患者の多くは内出血が止まらず死んでいった。彼はそれを「X病」表現した。彼はその真実を世界に伝えたかったが、記事はGHQに没収された。
 
封印された被爆者たち
アメリカは広島の原爆投下前の核実験で、すでに残留放射能のことを知っていた。
深刻な健康被害を及ぼす放射能の灰が検出されていた。
原爆開発計画の責任者レスリー・グローブス将軍は、原爆投下後の8月下旬、残留放射線による健康被害を知り、これは我々のダメージになると言っている。
アメリカの科学者たちは、一転して残留放射能を否定し始めた。
ABCCは被爆者のやけどやけがの具合を克明に記録したが、残留放射能については無害なので、調査をしなかったという。しかし、ABCCは残留放射能について調べていたのに公表しなかった。
 
アメリカはあくまで原爆投下によって終戦に導き多くの人命を救ったのであって、核開発を進めていくうえで、残留放射線の影響はあってはならないとした。
 
ジョージ・ウェラー記者は戦争の最初の犠牲者は真実であると語った。
 
第3章 1950年代 ビキニー広島
原子力の平和利用と日本」
1950年代になってもアメリカの核戦略に日本は巻き込まれていく。
その舞台となったのがビキニと広島。
 
原子力平和利用と核戦略
1950年代はアメリカとソ連が核開発計画にしのぎを削っていた。
ソ連は1953年8月にアメリカに先んじて水爆実験に成功。
1953年12月。国連でアイゼンハワー大統領が演説。アメリカは一転して、原子力の平和利用を訴えるようになる。
核兵器用に濃縮したウランを民間に提供。世界中で原発建設を推進する。
一見核軍縮のようにみえるが、平和と繁栄を生む原子力の方が戦争を生む原子力より世界に受け入れられやすい。原子力が建設的に利用されれば、核兵器も受け入れやすくなるだろう、という意図があった。平和利用という目的で、西側諸国に原子力技術を供与し、核配備につなげようとする狙い。
 
アメリカの原子力提供計画のターゲットは日本も例外ではなく、被爆国であるがゆえ平和利用のシンボルとして熱心にすすめられた。
しかし、1954年3月アイゼンハワー演説からわずか3か月 第五福竜丸事件が起きる。
南太平洋ビキニ環礁で行われた水爆実験(ブラボー)で、近くで操業していた日本の漁船第五福竜丸が被曝した。
 
第五福竜丸59年目の真実
爆発の2時間後、死の灰が降り始めた。
残留放射能による急性症状が現れ始めた。
2週間後、焼津港に戻った漁船から自然界の5000倍の放射能が検出。
27種の核分裂生成物が検出。
死の灰をかぶった乗組員の症状は深刻だった。
水揚げされたまぐろからも高濃度の放射能が検出。
いっきに盛り上がる反米感情。全国で反原水爆運動。人口の1/3が署名。
 
第五福竜丸無線長久保山愛吉さんの病状は深刻。一か月後に亡くなる。全身の臓器、体中、放射能まみれ。日本医師団は急性放射能症と診断したが、アメリカは輸血による肝炎とし、放射能との因果関係を認めようとしなかった。
 
なぜアメリカは放射能を否定したのか。
水爆実験をまだ続けていきたかったからだろうと久保山愛吉さんの奥さんはその質問に答えている。
 
ビキニ水爆と日米政治決着
アメリカ側はビキニ実験を国際法不法行為とする見解は絶対にとりえない。損害賠償として支払うことはできない。慰謝料として支払う建前をとりたい。
アメリカの核の傘のもと、日本政府も異議を唱えることはなかった。
日米関係の悪化をおそれた日本政府は真実を隠ぺいし、政治決着をはかる。
1955年1月鳩山内閣アメリカのいいなりになって、政治決着をはかり慰謝料を受け取る。
200万ドル。このときも残留放射線健康被害の因果関係は否定された。
 
第五福竜丸乗組員は、だれがみても被爆者。放射能を大量に浴びているのに被爆者として扱われない。現在も真実は隠ぺいされたまま。第五福竜丸の乗組員の被爆者大石又七さんたちは、原爆医療法の適用外。
 
ビキニ周辺の放射能は去年、除染が終わったばかり。まだビキニ事件は終わっていない。
 
原発導入の極秘シナリオ
1954年。ソ連が世界初の商業用原子炉の稼働に成功。
アメリカは日本のメディアをたくみに利用し、原子力の平和利用の宣伝工作をさらに強化していく。
アメリカは原子炉用の濃縮ウランを日本にも配分すると申し入れ、世論が二分するなか、政府は態度決定を迫られていた。
4月 政府は原子力の平和利用に関する基本的態度を決定する。→日本の原子力政策のターニングポイント
政府見解「我が国民は3度までの原水爆の被害をこうむった不幸な経験を有するが、原子力は人類の貢献に役立たせるべきである。」
5月。原発平和利用使節団が来日。原発推進を訴えた。
原子力平和利用大講演会。テレビで生中継。アメリカの宣伝映画も流された。
6月駐米日本大使に送った極秘電文で、日米原子力協定の表明。濃縮ウランの受け入れ。
 
第五福竜丸事件からわずか1年3か月。被曝国日本の国民感情が大きくかわったのは、アメリカがしかけた宣伝工作。宣伝工作の最大のターゲットが広島。
核兵器の被害者が原子力平和利用に賛成だということになればプロバガンダとしてこれほど都合のいいことはない。
 
幻の「広島原発」計画
核アレルギーの強い日本では原発への反発も強かった。アメリカの宣伝工作によって次第に状況は変わっていった。
1955年1月地元中国新聞でさえ、原発導入賛成の社説を掲載。
「軍事的な目的に使われることがあるからといって原子力を禁じることは問題にされない。世の中はまさに原子力時代に突入した。」 
8月原水爆禁止世界大会での広島アピール
「原子戦争を企てる力を打ち砕き、その原子力を人類の幸福と繁栄のために用いなければならない。」
 
しかし広島原発計画は55年秋までに立ち消えになっていった。
広島から原発歓迎の声があがったと、世界に広まればそれでよかった。
 
アメリカの宣伝工作は新たなステージへと移っていく。
1956年5月
広島平和記念資料館ではアメリカが背後でおぜん立てした原子力平和利用博覧会が開催。
原爆被害を伝える資料は別のところに移された。
原子炉の模型。将来、原子力飛行機も飛ぶと宣伝された。長崎からも被爆者を招待。
3週間で11万人も集まったという。
来場者の調査アンケート
原子力は人類の利益60%  禍となる12% 
個人的に恩恵を受けたいか  はい85%   いいえ6%
米広報文化交流局の調査
1956年71%「原子力は悪いもの」 →1957年 15%に激減。
次第に原子力神話が定着していく
 
1956年12月 国務省高官の手紙
原子力の平和利用は目覚ましい効果をあげ、目的を半ば達成した。いずれ日本人自身が日本でも核兵器が使えることを望むだろう。」
 
1957年8月 茨城県東海村の原子炉が臨界に達し、ついに日本にも原子の火がともった。それから半世紀、アメリカの思惑とおり、アメリカの予想をはるかに超えて、世界第三位の原発大国になっていった日本。
 
原発ゼロ骨抜きの裏側。
去年「原発ゼロ」政策が骨抜きにされた裏側にもアメリカの存在があった。
民主党政権が威信をかけた原発ゼロ政策(2030年代に原発稼働ゼロ)はなぜ骨ぬきになったのか。
閣議決定が実質見送りになった背景にアーミテージ・ナイ報告書がある。
執筆者は元国務副長官 リチャード・アーミテージ
「近未来における原子力エネルギーの欠如は日本に重大な影響を及ぼす。日本が再び強く活気に満ちた国になることがアメリカの国益になる。しかし、原子力がなくてはそうはなれない。」 
 
日本は使用済み核燃料を再処理して、プルトニウムを作り原発に再利用することを許されてきた。 非核国では日本だけ。ある種特権的な地位。アメリカはその前提が崩れかねないと懸念した。原発ゼロになった際、使用済み核燃料から取り出したプルトニウム核兵器用とみなされる。
「 再稼働反対」と官邸に響く声よりもアメリカの意向を考えた。結局原発ゼロ方針をまとめたエネルギー政策はわずか5日で参考文献扱いとなった。(2012年9月19日)
 
政権交代の後、日米同盟を外交の柱とする安倍政権。原発ゼロ政策の見直しを表明した。原発輸出は成長戦略に組み込まれ、総理自らトップセールスに乗り出している。
日本は今では世界で原発を推進するアメリカの代理人日本こそアメリカの影響下で原発を持続させることができる唯一の希望」(元エネルギー省政策顧問 ロバート・アルバレス