原発と原爆 日本の原子力と米国の影
第一章 2011年福島
自衛隊ヘリ放水の謎 →米が求めた英雄的犠牲
ヘリコプターからの放水はシンボル的意味合いがあった。政府が全面に出ているという証明であり、それはアメリカに対してのパファーマンスでもあった、ということだ。
第二章1945年広島
広島、長崎では死ぬべきものはみんな死んだ。残留放射能で苦しんでいるものは皆無である、と言っている。
抹殺された原爆報道
実際はどうだったのか。
原爆投下後最初に広島に入ったジャーナリストはオーストラリア人のロンドンディリーエクスプレスのウィルフレッド・バーチェット記者。世界で初めて広島に入ったのは9月3日。
そのときの彼の記事(原爆の惨状を西側で初めて報道した記事)については8月7日の日記で紹介しましたが、もう一度ここに載せますので、まだ聞いていない方は是非、聞いてください。SBSラジオで朗読されています。
一面トップに掲載されたバーチェットの記事の見出しは「原子病。」
記事の最後は「No More Hiroshima.」で結ばれていた。
9月6日にファレル准将は残留放射能を否定。
以後、原爆報道はGHQによって厳重な検閲が行われるようになった。
世界で初めて長崎を訪れた外国人ジャーナリストはシカゴディリーニュースのジョージ・ウェラー記者は軍人になりすまして長崎に入って、病院に行き、医者や患者を取材。残留放射能は肉体を貫通して、血小板を破壊した。患者の多くは内出血が止まらず死んでいった。彼はそれを「X病」表現した。彼はその真実を世界に伝えたかったが、記事はGHQに没収された。
封印された被爆者たち
アメリカは広島の原爆投下前の核実験で、すでに残留放射能のことを知っていた。
ジョージ・ウェラー記者は戦争の最初の犠牲者は真実であると語った。
第3章 1950年代 ビキニー広島
「原子力の平和利用と日本」
その舞台となったのがビキニと広島。
一見核軍縮のようにみえるが、平和と繁栄を生む原子力の方が戦争を生む原子力より世界に受け入れられやすい。原子力が建設的に利用されれば、核兵器も受け入れやすくなるだろう、という意図があった。平和利用という目的で、西側諸国に原子力技術を供与し、核配備につなげようとする狙い。
第五福竜丸59年目の真実
爆発の2時間後、死の灰が降り始めた。
残留放射能による急性症状が現れ始めた。
2週間後、焼津港に戻った漁船から自然界の5000倍の放射能が検出。
27種の核分裂生成物が検出。
死の灰をかぶった乗組員の症状は深刻だった。
水揚げされたまぐろからも高濃度の放射能が検出。
第五福竜丸無線長久保山愛吉さんの病状は深刻。一か月後に亡くなる。全身の臓器、体中、放射能まみれ。日本医師団は急性放射能症と診断したが、アメリカは輸血による肝炎とし、放射能との因果関係を認めようとしなかった。
水爆実験をまだ続けていきたかったからだろうと久保山愛吉さんの奥さんはその質問に答えている。
ビキニ水爆と日米政治決着
日米関係の悪化をおそれた日本政府は真実を隠ぺいし、政治決着をはかる。
ビキニ周辺の放射能は去年、除染が終わったばかり。まだビキニ事件は終わっていない。
原発導入の極秘シナリオ
1954年。ソ連が世界初の商業用原子炉の稼働に成功。
アメリカは原子炉用の濃縮ウランを日本にも配分すると申し入れ、世論が二分するなか、政府は態度決定を迫られていた。
6月駐米日本大使に送った極秘電文で、日米原子力協定の表明。濃縮ウランの受け入れ。
幻の「広島原発」計画
8月原水爆禁止世界大会での広島アピール
「原子戦争を企てる力を打ち砕き、その原子力を人類の幸福と繁栄のために用いなければならない。」
しかし広島原発計画は55年秋までに立ち消えになっていった。
広島から原発歓迎の声があがったと、世界に広まればそれでよかった。
アメリカの宣伝工作は新たなステージへと移っていく。
1956年5月
原爆被害を伝える資料は別のところに移された。
3週間で11万人も集まったという。
来場者の調査アンケート
原子力は人類の利益60% 禍となる12%
個人的に恩恵を受けたいか はい85% いいえ6%
米広報文化交流局の調査
1956年71%「原子力は悪いもの」 →1957年 15%に激減。
次第に原子力神話が定着していく
1956年12月 国務省高官の手紙
原発ゼロ骨抜きの裏側。
執筆者は元国務副長官 リチャード・アーミテージ
日本は使用済み核燃料を再処理して、プルトニウムを作り原発に再利用することを許されてきた。 非核国では日本だけ。ある種特権的な地位。アメリカはその前提が崩れかねないと懸念した。原発ゼロになった際、使用済み核燃料から取り出したプルトニウムが核兵器用とみなされる。