天野祐吉さんを偲んで
天野祐吉さんが亡くなられたという記事を見て、とてもショックでした。
すでにブログにはこの写真を何度か載せていますが、天野さんの「広告批評」に収められていたということを知って、さすが、天野さんだなあと、改めて感動しています。
CM天気図のおもしろいと思ったものは切り抜いてあるのですが、
2012年8月29日CM天気図では、
電球がいつまで切れないのは困る。1千時間で切れるようにして、買い換えを促進しようということになった。こういうやりかたを「計画的廃品化」というのだが、電球だけじゃない。これは今まで多くの製品の分野で行われている。
成長経済を維持するためには、つまり大量生産と大量消費の巨大な歯車を休みなしに回し続けるためには、こういうことが平然とおこなれているわけで、それには原発が欠かせないということにもなるんだろう。
巨大化するものは、必ず暴力化する。こういうこわいことはもうやめにして、身の丈サイズの生活を取り戻すのが「日本の再生」につながるとぼくは思っているのだが、さて、LED電球の光の下で、これからどんな生活風景やCMが生まれていくの。たのしみのようなこわいような。
今年の6月26日のCM天気図は
「三本の矢によって、日本を覆っていた暗く重い空気は一変しました」って、信じられない。空気が明るくなったのは、兜町と永田町の一角だけで、ぼくの所は何も変わっていない。むしろますます暗くなっていくくらいだ。
今年の8月28日のCM天気図
映画の「少年H」を見た。
近ごろは「人類の危機」とか「地球の崩壊」とか、資金力と技術力にモノを言わせたハラハラドキドキ大作がハヤリだが、いま切実なのは「人類の危機」より「人間の危機」であり「地球の崩壊」より「人間性の崩壊」だろう。
で、戦争はそんな人間性の危機や崩壊をもたらす最大のものだということを、「少年H」はあらためて実感させてくれる。ゲリラ豪雨みたいに降ってくる焼夷(しょうい)弾の恐怖より、人が、言葉が、人間を容赦なく壊していく怖さである。
こういう映画を見ると、「人類の危機」や「地球の崩壊」といったアクション大作は、目の前の切実な問題からぼくらの目をそらさせようとしてるんじゃないだろうかと、疑い深いぼくはつい思ってしまう。地球が崩壊するというのに憲法9条や原発の問題を考えるヒマなんてないもんね。
もちろんそれは邪推というものであって、げんに「少年H」は健闘しているし、同じように人間が生きにくい時代を描いた「風立ちぬ」もヒットしているから、余計な心配はおのれの髪の危機を増すばかりだろう。
むしろその点では、映画よりCMだ。強引な成長経済で歪(ゆが)んでしまったいまの「生活の危機」を、どう組みかえ、どう乗り越えていくか。それがCMにとっても切実な問題のはずだが、現実はそこから消費者の目をそらさせるようなものが多い。CMにもいいものはあるけれど、あまりにも空騒ぎが多すぎるように思う。
10月16日のCM天気図が最終回となってしまった。
スーパーの野菜に顔写真入りで作った人の名前をいれるのは、生産者と消費者の親近感を生み出そうとするCMの一種だが、それは同時に、アンチグローバリズムのささやかなCMだったりして。
天野さんは「ぼくは思っている」とか、「ぼくの所」とか、「ぼくら一人ひとりが」とか、ご自分のことを「ぼく」と言っているのが私はとても好きでした。
今年の7月3日のCM天気図
昔はこういう情けない空気を新聞やテレビは痛烈に批判したもんだが、いまはアベノミクスがどうしたこうしたと、金勘定のニュースが最優先みたいだ。
だったら、せめてどこかの企業が「金々節」をCMソングに採用してくれないかと思うのだが、だめかなあ。それともいっそ、東電さんあたりが自己批判も含めて「金だ金々この世は金だ」とやってくれたら、日本も変わると思うけどなあ。
天野さんのお父様が松山の方で、天野さんも中学、高校時代は松山で過ごされたのだそうです。
CMについてもおもろしく解説されていたのですが、その切り抜きがないかと探してるのですが、今はみつかりません。もう「CM天気図」が読めなくなるのかと思うと、とても寂しいです。
ご冥福をお祈りいたします。