双葉町元町長井戸川克隆さん 東京本社前街頭演説

 
双葉町町長の井戸川克隆さんが、参議院選で、みどりの風比例区から立候補しています。
井戸川さんは、原発事故が起きたとき、命がけで住民をできるだけ遠くに避難させました。それが埼玉県加須市の旧騎西高校です。
 
政府は原発事故がなかったことのようにしたい、東電も補償はできるだけケチりたい。福島第一原発の事故の原因も究明されないまま、被害者の住民の補償も終わらないうちに、柏崎刈羽原発を動かそうとしています。政府はそれを後押ししようとしています。
命よりお金が優先する政治を止めないといけません。
 
井戸川さんの叫びを聞いて、比例区は井戸川かつたかさん(みどりの風)を応援してください。
 
東電前での井戸川さんの叫びを聞いてください。
 
井戸川さんについては1月28日に「フタバから遠く離れて」という映画を見たときのブログに書いてあります。
 
井戸川町長は、映画の中で、原発を誘致したことは誤った選択だったと言っていました。原発を誘致したら交付金はでますが、年数がたつにつれて交付金は減らされていき、交付金がなくなると、やがて新しい原発を作らされることになっていくのだそうです。
 
井戸川さんは藤沢の上映会のときに来てくださる予定だったのですが、 町長を辞任せざるをえなくなり、この日の映画会に来た人たちへのメッセージが届いていました。
メッセージの冒頭には、放射能のないところで平和な、みんなが集える町ができることを祈り、町民の安寧を願って、双葉町長を辞職したことが書かれていました。
双葉町原発を誘致して町に住めなくされた。原発関連の交付金等で造ったものはすべて町に置いてきた。
福島県内では放射能という毒で県民のDNAを痛めつけている。この状態から一刻も早く避難させること以外に健康の保証はない。そのあとに十分時間をかけて除染をやればいい。」と訴えておられ、
「人工放射能に安全の基準を言う実績が少ない。20msv/yで住めるという人が家族と一緒に住んで示すことが先だろう。その安全が確認できたら福島県民は戻ればいい」と井戸川町長は20msv/yで住めると決めた国の判断にも疑問を持っています。
 
1月28日のブログをもう一度ここに載せますので、読んで、ください。
 
1月28日のブログより
今日は藤沢市民会館小ホールでドキュメンタリー映画「フタバから遠く離れて」を見ました。
映画を主催したのは阿部とも子とあゆむ会で、阿部ともこさんは藤沢中の人たちにこの映画を見てもらいたかったと挨拶のときに話していました。400人入る会場に半分くらいだったでしょうか。
この映画をみて、憤りと悲しみが湧き上がってきました。
 
双葉町の井戸川町長はまず町民をできるだけ遠くにつれていかないといけないと事故が起こったとき、思ったそうです。そして埼玉県の旧騎西高校への避難となったのです。
 
福島原発1号機の爆発の映像から映画は始まりました。
騎西高校での避難生活の様子が9か月にわたって記録されています。
双葉町の家に一時帰宅のとき、帰ってみたら、家は土台しか残っていなくて、持って帰るものもない。
津波で亡くなったお母さんに花を供えるのが精いっぱい。でも水も瓦礫も何も触ってはいけないと、息子は父に大きな声で言っていた。持ってきた荷物から線香を探すが見つからないので、時間がないから線香はもういいと息子が父親に言っていました。
 
帰れるのは家族でふたりだけだから、ほかの家族がもってきてほしいものをメモして、それをみてめちゃくちゃに壊れた家からもって帰るものをさがしていた家族。まだ家があるからなんとか持って帰るものを探すことができた人たち。
 
昨年12月に井戸川町長への不信任案が可決され、井戸川町長は前の日記にも書きましたように
1月23日に辞任しました。
辞任のいきさつはhttp://www.labornetjp.org/news/2012/1225idogawa ←をぜひ読んでください。
↓そのなかから
騎西高校は唯一残った避難所として、今も160人の町民が暮らしている。一方、福島県内では佐藤雄平知事、福島県医大を中心に事故の被害を最小化するためのキャンペーンが張られ、「除染をするから帰還せよ」という政策がとられ続けてきた。井戸川町長はこの安易な帰還政策に反対し「チェルノブイリ基準」を示しながら「福島県内の多くの場所は、今なお人が住んではいけない汚染状況にある」と訴え続けた。すべては、目に見えない放射能から、子どもたちの未来を奪ってはならないという思いからだ。
 
井戸川町長はご自分で福島の避難基準とチェルノブイリの避難基準を比較して表を作られています。
福島の避難基準はチェルノブイリの4倍も高い。
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井戸川町長は「双葉町・町民がふるさとに帰還するにあたっての放射能除去の目標値は国際放射能防護委員会(ICRP「2007年勧告」)の示す一般住民の年間積算被ばく線量の上限1ミリシーベルトを訴えていたのです。
チェルノブイリでは強制避難地域としているような高い線量の地域を日本政府はどうして居住可能としたのか。
政府は帰宅困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域の三つに分けました。
これは住民の健康や安全を考えて分けられたのではなく、これらの地域は賠償金の金額が違い、賠償金のありかたでわけられたのです。いかに非人道的な考え方によるものかがわかります。
 
双葉町がどこにあるのか。原発事故からもうすぐ2年。テレビで地図を見ることもなくなった私たちは、双葉町の位置さえすぐには浮かんできません。写真の右下にカーソルをもっていくと「拡大」が出ますので、拡大して確認してください。
イメージ 2
 
双葉町の人たちは、東電や政府にふるさとを返せ、故郷に自分たちを戻せと訴えるデモをしていました。
でも帰れるわけはないのに訴えている自分たちもうそをついているし、東電も政府もうそばかりつき、誠意をみせていないと言っている顔はとても悲しげでした。
 
事故が起きて、菅首相(当時)が浜岡原発を止めた後の全原協(全国原子力発電所所在市町村協議会)の会議で、司会の敦賀市長の発言は耳を疑いました。
双葉町の井戸川町長も出席している席で敦賀市長は「浜岡原発も止められ、新しい原発の増設はなくなるということが言われているが、非常に不愉快だ」と発言しているのです。
原発を抱える自治体の長が、原発事故を他人事ととらえ、経済優先の姿勢はちっとも変っていない。何を学び、何を考えて政治をしているのだろうか、と心底映画を見て、憤りをおぼえました。
 
そして全原協の総会には、政府から海江田経産相、細野原発担当大臣も出席しているのですが、それぞれ、最初に言いたいことだけ言って、さっさと退席したのです。
井戸川町長が現状を訴える発言をしたときには、ふたりとも席を立っていたのです。
 
映画監督の船橋淳氏からの「藤沢市のみなさまへ」メッセージが届いていました。
今回の事故で、日本政府と東電の対応はとても似通っていた。事実の公表をさけ、「健康にはただちに被害はない」という文言に終始する。政府不信が肥大化しました。
国が推進してきた原子力政策。最初はそれが破綻をきたし、危険だという理由から警戒区域の中を見ることができませんでした。どこまでが安全で、どこまでが危険なのか。
 
被ばくの恐怖の報道は関東圏が中心で、事故報道は福島第一原発が中心。日がたち、事態が日常化するにつれ、もっとも被害の大きい避難所の人々が無視され続けることに疑問を持ちました。
(中略)
双葉町の人々は、自分の家に帰られるのかどうか?自分の持っている家や財産はどうなるのか?基本的な質問に対する回答が永遠に引き延ばされ続けています。その時間を記録しなければならない。それは忘れてはならない。
(中略)
人の繋がり、風土、郷土と歴史、というのも消え去りつつあります。それに対する償いは誰も用意できていません。簡単に用意できるものではありません。
そして私たち東京近郊の人間は、そんな福島で作られた電気を使い続けてきたのです。私たちは、この原発事故の当事者なのです。 
このわれわれも加担してしまっている犠牲のシステム・原発をどうやっていくのか、考えていきましょう。
 
原発で犠牲になったのは人間だけではありません。牛や馬、犬や猫、鶏など多くの生き物が犠牲になり、飢えでたくさんの家畜たちが死んでいきました。
この続きは1月28日のブログを読んでください。