戦争絶滅受合法案について

8月15日のブログの中で書いている「戦争絶滅受合法案」について、少し書き足します。
 
イメージ 1
 
戦争が始まったら次の者を10時間以内に最下級の兵卒として召集して、最前線に送り込んで実戦に従わせるという法案。
第一に国家元首
第二に国家元首の男性親族で、16歳以上の者。
第三に総理大臣、国務大臣、次官。大臣はみんな行かないといけないし、官僚のトップも行かなければならない。
第四に国民によって選出されている立法府の男性代議士、国会議員。「ただし、戦争に反対の投票を為したる者は之を除く」戦争に賛成したり、反対しなかった議員は戦争を容認したことになるから、まず自分が最前線に送られる。
最後に第五の宗教界の指導者。この人たちはふだんから命の尊さについて説いているわけだから、当然戦争に反対すべき。だから反対しなかったら、10時間以内にまず自分が行って、敵と戦わなければならない。
(註:女性については8月15日のブログを読んでください)
 
この法案は今までにいちども成立したためしはない。
しかし、これを考えたのがフリッツ・フォルムという生粋の軍人で、この法案の中身が「戦争する国家」というものの構造を、軍人の目で非常に的確にとらえていると思われる。
 
この法案が成立したためしがないのは、現実に戦争をしない国がこれまで体制としてできなかったということでしょう。ほとんどすべての国が軍備をもち、いざとなったら戦争ができる国として存在してきた。
特にこの法案ができたのが20世紀初めだから、どこの国も戦争をするのが当たり前だと思っていたから、このような法案は成立しないわけ。
 
逆にいえばこの法案は戦争をする国の本質をとらえている。
国家元首を中心とした国家の権力者たち、そして彼らと利益を共有する者たちが自分たちの権力や利益を確保し、あるいは拡大するために国民を犠牲にして行うのが戦争の典型的な形。
 
国家の戦争とは、国民の犠牲のもとに権力者たちが領土を獲得したり、資質を獲得したり、権益を拡大していくもの。そいいう真実をこの法案は正確にとらえて暴露しているということ。
 
わかりやすく言えば、戦争の時には国家元首をはじめとする権力者たちや支配者たちは戦場に行かず、安全なところにいて、国全体に命令を発していくわけです。
具体的な軍事行動の命令を発するのは軍の高官だが、軍の高官も近代戦争においては、普通は参謀本部や「大本営」にいます。アメリカだったらペンタゴンにいるので、最前線に行くわけではない。
 
この法案は権力の大きい順に問題にしているのです。(最後の宗教界の指導者は権力者というより権威者)
もうひとつ軍需産業の経営者もここに入れると、ますます戦争ができにくくなるでしょう。
 
これらの人は戦争によって、利益や権利を維持したり、拡大できる人たち。彼らが戦争を始めます。
しかし、そこで犠牲になるのは、一兵卒として動員され、そこで敵と戦わせられる国民なのです。
ここで重要なのは「一兵卒として最前線に送られる」ということ。
 
一兵卒は彼らの命令を受けて、一方的にそれに従わなければらならない。命令に従えば生き残れないと思っても戦わなければならない。まさにそこに戦争の悲惨さが集中する。そういう悲惨なところに追い込まれ、敵を殺さなければ殺されるという状況に追い込まれて、次々に斃れて(たおれて)いく。それが近代戦争における兵士の実態です。
 
兵士だけではありません。第二次世界大戦の日本でも、広島・長崎の市民、空襲を受けた都市の市民たちはやはり犠牲になっていく。また国民の犠牲といえば、沖縄のことを忘れてはいけない。沖縄戦では日本軍が生き延びるために住民が犠牲になりました。軍は国民に敵対すらした。さらに戦後も今日まで、沖縄には米軍基地の集中という形で犠牲が押し付けられ続けてきている。
          (「憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本」より 98ページ)
 
イメージ 2
 
この本は「憲法が変わったら戦争になると思っている人」が読んでも役に立つ本です。