ETV特集~届かぬ訴え 空襲被害者たちの戦後

ETV特集~届かぬ訴え 空襲被害者たちの戦後
8月17日のETV特集を見なかった方はぜひ、読んでください。
 
今年5月最高裁まで争われてきた一つの訴えが退けられた。
戦争中、空襲によって傷ついた被害者たちが国に補償を求めて起こした裁判だった。
 
まだ太平洋戦争の空襲被害者たちの救済と支援を訴える裁判が今も続いていたとは知りませんでした。それなのに憲法を変えて、変えなくても解釈変更で、また戦争の出来る国にしようとする動きがあるのはどういうことでしょう。
 
太平洋戦争では、日本各地の空襲でたくさんの人が命を落とし、命は助かっても家や財産を失っただけでなく、顔のやけどのケロイドや、手や足をうしなって、体の障害のため不当な差別を受け、働くこともできず、生活苦から我が子を殺して一家心中を図った人もいます。
また5歳のとき、焼夷弾による重いやけどを負い、顔面にケロイドが残り、手に大やけどをしても障害者手当をうけられない。顔の整形は美容整形になるといわれて、保険がきかない。補助がでない。借金して30回美容整形手術をして39歳で命を絶った女性もいる。
 
米軍による日本空襲の方針は、産業と生活の基盤を破壊し、日本人の戦意を砕くことを狙いにしており、空襲は大都市だけでなく、地方都市にも次々におよんだ。そうした中、青森では、住民が避難することで消火活動が行われなくなることを恐れた行政が住民の避難や疎開を禁じたために大きな被害が出た。(「NHK証言記録・太平洋戦争と空襲」より)
 
浜松は地方都市であるのに30回以上もの空襲があったそうです。
アメリカ軍は、富士山をめざして日本に入ってきて、そこから東京や名古屋に向かったそうですが、それまでに機体にトラブルがあって引き返すとき、機体を軽くするために浜松に爆弾を落としていったのだそうです。
日本空襲の指揮をとったカーティス・ルメイ空軍大佐は「浜松はB29にとってなじみの町。爆弾を始末するごみため。」と書いています。
 
1945年3月の名古屋大空襲で左目を失った今年97才になる杉山千佐子さんたちは、41年前に国に陳情書を出し、議員に働きかけ、空襲で障害を負った一般市民も軍人、軍属と同じように国からの救済を求めてきたのです。
1973年(昭和48年)から賛同する議員たちと法案を作成し、議員立法で「戦時災害援護法」の成立をめざしてきました。それは、国家補償の精神に基づいて、一般市民の空襲被害者にも軍人軍属と同様の国による援護を求めるもの。
法案は1973年(昭和48年)から14回にわたって、国会で審議された。政府の姿勢はいつもきまっていた。
「一般国民は、軍人や軍属と違って、国との雇用関係がないため、国として補償はできない。」というもので、法案が出されるたび、審議未了で廃案となった。1988年(昭和63年)を最後に法案は提出されることもなくなった。
 
2008年(平成20年)に、廃案が14回も続き、「戦時災害援護法」がなかなか成立しないので、国の支援が待てず、大阪空襲訴訟原告団は裁判に訴えることにした。
「軍人、軍属との支援との差別は憲法14条、法の元の平等に違反する。国が起こした戦争によって被害を受けた者でありながら、空襲被害者のみが差別され援護策を受けられない合理的理由は存在しない。差別されるのはおかしい」彼らは国による謝罪と補償を求めた。
2011年(平成23年)12月大阪地裁の判決は国に空襲被災者を救済する義務はないというもの。
阪高裁は戦争の犠牲や損害は国民がひとしく受忍すべきだったとして退けた。
現在最高裁に上告中。
 
東京大空襲の被害者たちも裁判を起こしていた。最高裁まで進んだ末、今年5月に上告が棄却された。
 
「振り返ってみたらたくさんの戦災障害者の人びとが苦しんできた」と、41年前に国に救済を求める運動をたったひとりで始め、戦後ひとりで生き抜いてきた97才になる杉山千佐子さんは言っています。
 
杉山千佐子さんは41年前に全国戦災障害者連絡会をたちあげた。
そこで新聞記者だった岩崎健弥さんが杉山さんを取材して、空襲で障害者になった人たちが国から何の援助も受けていないことを知り、そんなばかなことはない、しかも新聞は何も報道していないことを知り、それから取材を始めた。今も岩崎さんは杉山さんを支援しています。会は年に一回、会報を出していましたが、なかなか世に届かなかった。
 
なぜ国は戦災障害者の支援に消極的なのか。
立命館大学教授赤澤史朗さんによると財源の問題が大きな理由だと分析。
国の存亡にかかわる非常事態なのだから、国民たちは等しく、戦争の犠牲を受忍すべきである。一般国民まで補償したら財政負担が大きすぎる。補償したら国の財政はもたない。」そういう国の考えがちらちら見え隠れする、と赤澤さんは言っている。
 
障害を負った被災者のその後の調査はされてこなかったので、杉山さんはひとりで調査し、映像にも残してきました。苦しんできた戦災被災者の声と戦後の記録を残した。
手を失った人、両足を失った人、重い障害に苦しみ、差別にも苦しんできた人たちの必死に生きる人々の姿を元新聞記者の岩崎さんは、杉山さんといっしょに世に訴えようとしてきました。戦災障害者たちの記録を世に残していこうと、ふたりで整理しています。長い間埋もれてきた戦災障害者たちの存在。そこに光をあてて欲しいという願い。
97才になった杉山さんにとって残された時間は多くはない。
 
杉山さんが25歳のとき、太平洋戦争がはじまり、杉山さんは正しい戦争と熱く信じていた。国は空襲時のこころえを次のように指示していたのです。
「私たちは御国を守る戦士です。命を投げ出して持ち場をまもります。命令に服従し、逃げ出すような勝手な行動を慎みます。」
避難のための防空壕より、すぐに消火活動の出来る退避場が推奨された。
杉山さんは、こうした当局の指示を守り、倒れてきた建物と土砂に押しつぶされて、左目を失った。
 
焼夷弾についても当局は軽くみていた。
防空新聞の見出しは「精神力で叩き潰せ」「案外、消しやすい」「女、子どもでも掴める」「少しも危険はない」など。
しかし、焼夷弾雨あられのように空から降ってきた。焼夷弾に立ち向かった市民の中に大きな犠牲が出た。数えきれない負傷者が焼野原に残された。
 
戦時中の日本には戦争で被害をこうむった人を救済するしくみがあった。
1942年(昭和17年) 戦時災害保護法(東条内閣)
空襲によって、住宅を失った人には、住宅や家財に対する給与金。負傷したひとや遺族に対しての給付金も盛り込まれていた。
しかし、終戦後、GHQは戦争遂行に対する法制度の撤廃を命令。昭和21年に戦時災害保護法廃止。
1951年(昭和26年)サンフランシスコ条約の後、戦争被害者、犠牲者に対する補償は日本政府に任せた。
 
まず声をあげたのは、戦死した軍人軍属の遺族や戦争で傷を負った傷痍軍人たち。
1952年(昭和27年) 戦傷病者戦没者遺族等援護法成立。遺族年金、障害年金、医療費の補助が決定。軍人、軍属はかつて国との雇用契約があったからというのが補償の理由。
 
1957年(昭和32年)に原子爆弾被爆者の医療等に関する法律が成立。
国との雇用関係の有無は問わず、放射能障害という特別な事情の措置。
 
空襲被害者も同じように支援を求めた。
手を奪われ、目を奪われ、足を奪われた。しかし、国は一般市民の被害者に手を差し伸べることには否定的だった。
1978年(昭和53年) 参議院社会労働委員会で、当時の小沢辰夫厚生大臣は「一般の戦争の犠牲者はそこまで国が手が回らぬので、結局一般社会保障の充実によってできるだけ対処していこう」と述べた。
 
声をあげてから40年以上がたったが、25年前を最後に国会で取り上げられることもほとんどなくなった。杉山さんは「自分たちは社会から忘れられた存在なのか。仲間も次々亡くなっていった」と語っていた。
 
杉山さんは、市民も空襲被害者に対して手厚く支援している国もあることを知った。
それは、同じ敗戦国のドイツ。1988年(平成元年)に杉山さんはドイツを訪れる。
国と雇用関係のないのにドイツはどうして。支援のできるその論理とは何か。
ドイツ各地の戦災障碍者を訪ねる。支援を調査してまわった。
 
ドイツは、「戦災による障害の程度に応じた支援」「医療費は全額国が負担」「顔のやけどを大変重い障害と認定」をしていて、あまりにも日本と差がありすぎて杉山さんは悔しく思った。 
ドイツでも終戦直後から一般市民への国の支援が問題になった。最初に枠組み作りに動いたのが初代首相のアデナウアー。アデナウアーは、すべての戦争被害者の社会復帰が西ドイツの復興につながると考えた。
1950年に「戦後補償の理念を定めた連邦援護法」制定。一般の戦争被害者にも軍人と同等の権利が与えられ、障害を負ったり、財産を失ったりした人々を国が援護することが定められた。
財源の問題はドイツにもあった が、比較的被害の少ない企業などから税を徴収。国が運営する負担調整基金を通して、被害の大きい人々や企業に補償を行う仕組みを作った
 
ドイツは総力戦体制下というのは、全員が兵士、全員が戦争に関係ある人であり、軍人、一般市民の区別なく社会に統合することとした。
 
日本では30回以上の空襲があった浜松で、空襲で被害を受けた市民が空襲被害者を調査し、市議会に救済を訴え、1980年(昭和55年)に一人あたり年間1万円の見舞金の支給が決まった。しかし国がそれに続くことはなかった。
 
道半ばで止まっていた議員立法への動きが再び始まった。
最高裁判決の3年前、2010年(平成22年)全国空襲被害者連絡協議会に遺族、孤児が参加して、全国組織が発足。
それを支持する超党派議員連盟ができて、衆参あわせて50名の議員が集まった。
 
25年ぶりに援護法の素案が作られ、検討が重ねられる。「空襲等による被害者等に対する援護に関する法律案」ができて、この法律は国の責任で空襲被害の実態調査を行い、被害者に給付金を支給を求めるものであった。
 法案がまとまり次第、国会に提出、可決させる運びになっていた。
 去年12月、政権が交代。議員連盟の議員が落選、半減する。あと一歩のところまできていた法案の作成はまた中断。
 
杉山さんは立教大学での講演 で、「100才までに援護法を作りたいと願っていたら、本当に100までかかりそう。でも100までにできたら、とそれまで生き続けて、なんとしても戦災災害援護法を成立させたい」と言った。
どんなことがあっても希望は捨てない杉山さんの思いを伝えた。
 
今年の6月に中断していた議員立法への動きが再び始まった。空襲被災者たちが、国会に残っていた議員連盟に働きかけた。
議員連盟の議員のひとり民主党近藤昭一議員が空襲被災者たちに、「戦争体験をしていない世代だから、もう二度と戦争を起こしてはならないという意味では、我々の世代の責任として法律を作る」と言った言葉には責任を持ってほしい。
 
被災者たちは、議員連盟に入っていない新人議員のもとをまわって働きかけている。問題の存在を知ってもらうことから始めないといけない。維新の会の山田宏は「どこまでの救済を求めているか」と聞いた。それに対して被災者たちは「補償金の金額が問題なのではない、国の命に対する姿勢が欲しい。生きたあかし、死んだあかしを問うているのだ」と伝えていた。
 
戦後68年。届くことのなかった空襲被害者たちの声なき声。
命をかけた声を私たちはどう受け止めるのか。
 
私はこのような法案が国会に提出されていることさえも知らなかった。
憲法を変えて戦争のできる国にしようとしている人たちは絶対に戦争に行かない。
零戦で突撃を命令した人は長生きして、命令された若者が死んだ。
国は、国家の存亡にかかわるときは市民を犠牲にしても仕方ないと言っている。
自民党が変えようとしている憲法は国民ではなくて、国家を守る憲法であることをこの戦災犠牲者たちの戦いから知らないといけない。
戦争で犠牲になるのは市民なのだということを杉山さんたちは教えてくれている。
まだ戦争は終わってなかった。