リレートーク(2) 青井未帆さん 中野晃一さん 10・8日比谷野音大集会&パレード

 
リレートーク(2) 青井未帆さんと中野晃一さんのトークです。
 
青井未帆さん
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今というこの時代をのちに振り返ったとき、
あれが戦後平和主義のおわりだった、2014年は転換点だった、と言われるかもしれないと危惧している。  
私は戦後生まれの両親からうまれた。
戦後民主主義教育を受けた。
戦争を知る両方の祖父母もなくなった。
身のまわりでも先の大戦にまつわる話がだんだん少なくなっている
戦争を知る世代から戦争を直接的には知らない世代へ
世代が転換するなか、私たちは来し方行きしかたを世代をまたぎながら語りうる残り少ないチャンスにむきあっている。
 
「過去に盲目であるものは現在においても盲目である。」
1985年、ドイツ敗戦から40周年 西ドイツ大統領ヴァイツゼッカー氏が連邦議会で行った演説の非常に有名な言葉。
氏はまた、「瓦礫女のことを覚えているか」と過去の記憶を喚起した。
私はこれを大学の通学途中で、聞いて涙を落とした。
これを聞いて、過去を学び、将来につなげていこうとそのとき心に誓った。
過去に学ぶこと。未来にこれを伝えること。
 世代間で記憶を伝えていかないといけない、知恵を伝えていかないといけない。
 
これまで人間のなしてきたことの蛮行、その積み重ねを反省することなしに私は未来を作っていくことはできない。
知恵の継承というのは私たちひとりひとりの問題であるはず。
 
総力戦でだれが亡くなったのか、だれが弾となり楯となったのか。
なぜ焼夷弾を消すような義務を課されたのか。
そして憲法研究者として私が意識せざるをえないのは、権力の統制に最終的に失敗した明治憲法の問題。
日本国憲法は、権力、生の暴力となりうる実力の統制を課題としてきた。
日本国憲法の背負った課題は、戦後政治の中で相当に真摯に取り組まれてきたものである。
しかし、今私が恐れているのは、現在の日本の政治の中で憲法がなくなっているのではないか、
極めて軽くなっているのではないかということ。
 
思い出していただきたい。
安倍首相がまだ首相でなかったころ、次のように述べている。
日本国憲法は自分たちが専制や隷従、圧迫と偏狭をなくそうと考えているのではない。
いじましいんですね、みっともない憲法である。」
 
また最近では安保法制懇座長代理が次のように述べている。
憲法最高法規ではなく、上に道徳律や自然法がある。
憲法だけでは何もできない、重要なのは具体的な行政法である。
その意味で憲法学は不要だとの議論もある。」
 
みなさん、思い出していただきたい。
私はこの言葉を聞いたとき、非常に衝撃を受けた。  
 
政治がなされるにあたっては超えていけない一線がある。ノリがある
それが立憲主義の意味である。
政治は憲法に従わなければならない
 
ノリを守るとうことは、今日の国際標準的な考え方。
我が国の政府も他国の政府に向かって法を守れと言ってるからも、これが国際標準であることは明らか。
しかし、憲法がみっともないものである、不要であるなら、日本で権力が従うべきノリというものは、
実際にはなんだんろうか。憲法はあるのだろうか。
不安に思う。
統制されない権力を欲する姿勢が垣間見られる。非常に不安である。
 
日本版NSC法
 
いずれも根っこはひとつ。相互に関係している。
最高法規であることをうたった憲法を見失ってしまえば糸の切れた凧になってしまう。
 
権力はしかるべき手続きにしたがってしかるべき内実を伴いながらこれを実行されていかなければならない。
このことは多くの犠牲を払いながら、私たち人間が学んできたことであるはず。
 
私たちの子どもや孫へ世代の転換期にあたり、知恵と経験を引き継いでいきましょう。

中野晃一さん
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政治学をやっている。
政治学をやっているものからすると、日弁連の主催のこのような集会に呼んでいただくのは
ちょっと上り詰めたという感慨がある。
政治と法律は必ずしも仲がよい分野ではない。近親憎悪とうものがある。
 
法律というのは実際のところ、内閣法制局が頑張るので、どんな法律でもある程度ソーセージのようにそれなりに食べられるものにできあがっている。
弁護士、法曹の方は食べ物として法律を一応理にかなったものとして見ている。
 
政治学というのはソーセージができる過程を見る。あまり見ない方がいいと言われている。
くず肉が混じったり、筋がはいったり、骨が混じったり、よくわからない添加物が入ったりしていることがある。
 
政治学者、憲法学者日弁連の方たちといっしょにみんなでたちあがったというのは、くず肉どころか、おおよそ入ってはいけない長靴とかよくわからないものが入っている法律が作られようとしている。
そのための閣議決定がなされたと思っている。
それだけの危機にある。
 
政治学者として、集団的自衛権、安倍さんがやろうとしている積極的平和主義とは何か、調べてみた。
しかしどのような報告書を見ても、積極的平和主義のきちんとしたした定義はなされていない。
 
私が唯一みつけるものができたものは、日本経済新聞の北岡さんが書いたもの。
 積極的平和主義とは消極的平和主義の逆である。
消極的平和主義とは、日本が非武装であればあるほど世界は平和になるという考えである。
積極的平和主義とは、日本が抑止力を高めれば高めるほご、日本が武装すればするほど平和になるという、消極的平和主義の真逆のもの。そういうことのようなもの。
 
安倍さんが与党協議という茶番がおこなわれているとき、外国に行ってペラペラ「こういうことをやる」としゃべったことのひとつが、
「シャングリアダイアローグ」の演説 5月30日の演説。
全文を読むとぞっとるような自己陶酔がたくさん入った気持ちの悪いもの。

「国際社会の平和安定に多くを負う国ならばこそ、
日本は、もっと積極的に世界の平和に力を尽くしたい。
積極的平和主義のバナーを掲げたいとそう思うからです。
 自由と人権を愛し、法と秩序を重んじて、戦争を憎み、ひたぶるにただひたぶるに平和を追及する
一本の道を日本は一度としてぶれることもなく、何世代にわたって歩んできました。
これからの幾世代に変わらず歩んでいきます。」

正気とは思えない!
 何世代にもわたって、ひたぶるに(意味がわからない) と言ってしまうのです。
戦争はなんだったんだろうか?
あれはせいぜい戦争を知らなくなって2世代くらいなのに、なんで何世代にもわたって、と
安倍さんは言ってしまうのか。
 
彼の大好きな靖国神社Q&A
子どもにもわかるように靖国神社をわかるように説明している。

こんなことが書いてある。 
「Q:靖国に祀られている神は誰なのか?
 A:戦争は本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかり守り、平和な国として、
まわりのアジアの国々とともに栄えていくためには闘わなければならなかったのです。
戦争に尊い命をささげられたたくさんの方々が神様としてまつられている。」

そこに平和を祈りに行くのが安倍さん。
恐ろしいですよね。
 
金曜日にノーベル平和賞を受賞するかドキドキしながら見守っているのですが
安倍さん、あの授賞式にのこのこ出ていって、シャングリアダイアローグの演説をコピペしてまた読むんではないかと恐れている。
 
必ず閣議決定を撤回させて我々の手に主権を取り戻せるようにいっしょに頑張りましょう。

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三木由希子さんと高田健さんトークは次に続きます。
 
国会議員も参加しました。
国会議員は会場に到着順に名前だけを紹介↓
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